陽炎の向こうに、吉井和哉がちらつき始めた…。
ライブが近づくと、そのアーティストの楽曲をぐるぐる聴くようになって、半分シュミレーションのようにして当日を迎えるということが一般によくあると思うのですが、ここに至っても私は吉井和哉の曲をぐるぐる聴くということなくライブを迎えようとしています。
「元気になるような曲聴きたいな」とか「ゆったりした曲聴きたいな」とか、状況によってそのときに聴く曲をセレクトする場合、そういうときに吉井和哉の1枚がセレクトされることは私の場合ほとんどありません。では、どういうときに吉井和哉を聴くのか。
それは、「吉井和哉が聴きたい」と思ったときです。
もしかするとそう思ったときには「元気になるような曲聴きたいな」と思っているのかもしれませんが、「吉井和哉が聴きたいな…、あ、元気になりたいのかな、私」という順番。元気になりたいから吉井和哉を聴くのではなく、吉井和哉を聴きたいから元気になりたかった自分に気付く、という順番です。
さて、そう思ったときには、他のものでは置き換えが利かない。どうしても吉井和哉でなければいけない。ただただ、肝心なときに引っ張り出してくるのが、吉井和哉1枚。1枚を1周ガツンと聴く。それでも、吉井和哉の1枚なら、十分利くんです。一日中ぐるぐる聴いていると、逆に辛くなることさえある。
肝心なとこで(ばっちりかっこつけて)ばっと出てきて、難事を解決し、(にやにやしながら)さっといなくなる、そんな存在が私の吉井和哉です。
私は吉井和哉の楽曲云々よりも、吉井和哉という人間が、存在が好きなようです。これはどっちが先という話でもないように思いますが、最近、吉井和哉の曲を聴いているときよりも、吉井和哉のことを考えているときのほうが胸の高鳴りが激しい(笑)。これは何か履き違えのような気もしますが、もう彼の場合は履き違えだろうが履いてなかろうがつっかけだろうがひっかけだろうが、私にとってはもうどうでもいいことで。吉井和哉なら何でもいいこと。
何が言いたいのかわからなくなってきた、これは…てんぱっている。
…そんなときに、ロデオの黄色いもんを目の前にぶら下げられてみたり、STAN の試聴が盛大に始まってみたり、吉井のライブ前日に The Jerry のライブがあったりと、横槍がざくざく入る入る。少し前までは、その横槍にすねを打たれてやや動揺もしていた私ですが、この週末になり、全部ばっさり切り落とすことになんの躊躇もなくなりました。黄色は封印、STAN も後回し。The Jerry はライブですが、今回は行きません。
時ここに至り、吉井和哉のためなら、8割方痛点さえも麻痺。
(でも阪神が負けるのは痛い。それはかなり痛い。)